
か、そういうものが心の中にあると思いますね。実際の現場におられる場合は、私がもっと不便をかけるとか、少々のけがぐらいは何ということはないという勇ましいことを言っても、対応は難しいと思うんです。
実際に新聞社にいて、いつも悪いのは、むしろ対応の悪さなんですね。対応の悪さが−自分のところに責任があると思うと、なるべく隠して、わからないようにしようという魂胆が見えるときというのは、マスコミの人間は必要以上に過剰反応しちゃうんです。カーッといきり立つんですね。
若い記者のころに経験がありますが、小学校で帰宅途中の子供が犬にかまれて、よくあるケースですが、3人ほどけがをして入院したことがあって、学校に飛んでいったら、校長先生も教頭先生もいない。てっきり病院に行ったんだろうと思ったら、何のことはない。報告のために教育委員会に行っておられた。これはもう頭にくるんですね。「何だーっ」と怒って、子供がけがをしているのに何で病院に駆けつけないのかと真っ赤っかに顔を紅潮させて、そのままストレートに書いてしまうんですね。よくよく聞いてみたら事情はあるんですね。事情はあるんですが、そういうことだけでパッと反応していくんですね。
先ほどの価値観とか、あるいはシステムとかをきちっと確立された場合は、それをじゅんじゅんと説いて、少々のことには目をつぶるそれも、説得してみせるという気概でやる以外に、もう立ち向かっていく王道はないと思いますね。
ぜひ皆さんのお力で、新しい国際化、それからグローバル化、そういう時代に市民として生きていく価値観というのを、立派なものをつくっていただいて、そういう線に沿って若者を中心として、自然を舞台にした中で育て上げていってもらいたい。恐らくそういうことができたら、私が今読んでいる司馬遼太郎さんも草葉の陰で大変喜ばれるのではないかと思います。
ちょうど時間となりましたので、大変はしょりましたけれども、この辺で終わらせていただきます。
ありがとうございました。

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